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1675

私の書いた小説 竹内英通 URL

2023/02/07 (Tue) 19:45:18

夜叉姫変化抄

石神意応身(しゃくじいおうしん)


本夛家は旗本ではあるが、譜代の名門ということで所領地を与えられていた。
冬は雪が深く寒さもことのほか厳しいが、夏の夜ともなれば満天星躑躅を伏せて嵌め込んだ如く、文字通り降るような星数のもとにあった。
旗本の数には変遷があるが、寛政年間には5300人ほどであったと言われている。俗に「旗本八万騎」などと呼ばれたのには時代にもよる。
旗本の出自は三河以来の譜代の家臣を中心として、戦国期の徳川家の膨張により支配下に組み込まれた駿河国・甲斐国・信濃国などの武士団、大名や旗本の分家、名家の子孫、御家人などから登用された者など様々であった。
特殊な旗本として旗本でありながら参勤交代を行った交代寄合や、旗本の中でも家柄がいい家を集めて儀式典礼や朝幕関係を司らせた高家があった
旗本の俸禄には知行取と蔵米取の別があった。知行取とは、百姓(農民)が暮らしている土地を領地として与えられ、領地内で暮らす百姓から年貢として生産物の一部を徴収する領主になることである。知行3000石以上の旗本は領地に陣屋を設置して直接に領地支配にあたった。 一方3000石以下の旗本は領地支配は幕府の代官に委ねて年貢だけ徴収した。
なお100石の知行所の広さとは土地の状況によっても異なるが、上田一反三石として、これを五合摺りとした場合は一石五斗になることから、おおよそ七町前後の田んぼとなる。付随した畑や山林も含めると十町の2倍から3倍ぐらいの土地が100石になるということになる。土地持百姓を一軒一町と計算すれば六、七軒の土地持百姓がいることになるが、実際には数町歩の百姓もいれば小作百姓もいるので、だいたい100石の土地には十軒前後の百姓が生活していたのだと考えられる。
 八重は幼き頃から12歳まで国元でのびのび育ったから、女だてらになどと言われることもなく、まるで男とかわらない普段を過ごした。江戸に出てから5年ほどに過ぎない。

このところ日が短くなった。
つるべ落としで沈まんとし、遠く霞む山の端から届く残照が、江戸屋敷の垣根の周りに植えられた残菊の姿を浮き上がらせていた。
八重はこの刻限になると男でもあるまいに、幼き頃から引き続きその庭でも真剣を振るい、剣の鍛錬と工夫を凝らすのが日課であった。既にその刃風の音は凄まじい域にあった。

それは武家であれば女といえど、刀法の触りくらいは素養として身に着けておかねばならぬ、ましてや三河以来の直参旗本の名門である本夛重忠の娘なのであるからとの父親の考えにもよる。
本夛は無役ではあるが、剣の腕は比類なき達人ともいえる域にあったから、その手ほどきは娘に対しても並みの道場稽古を超えるものであった。時の将軍綱吉とは、彼がいずれは武家の統領の地位を襲う者として遇されていた幼少期に始まり、共に柳生流を学んでいた以来肝胆の仲であるから、しょっちゅうお呼びがかかり、ご前に参じて時を過ごすこともあるので、幕閣といえど本夛重忠を軽くは扱えなかった。

柳生新陰流の仕掛太刀の内容は、三学、九箇必勝、天狗抄、猿飛に分かれ、ほかに小太刀の技を丸橋としている。いずれも皆伝を受けて居る。
この小太刀の技、丸橋の手ほどきをしたのであった。
流派としては「ひきはだ竹刀」による稽古をするのであるが、これにはよらず真剣を用いた。
武家の娘であるから、茶・生け花・琴・書・和歌など一通りは人後に落ちない素養は積んでいるが、一番興味をもって嵌ってしまったのが剣技なのであった。女だてらにと後悔しないでもないが、今更止め立てもできない。男子であったならと思うばかりである。
 自分自身が剣の道の極みに近いところで教えたのだから、学ぶ側も教えられるところに迷うところがなかった。本物に触れるということは、説明なしに伝わる。
鬼姫と呼ばれかねないのとは逆に、美しく育った娘が可愛くてならなかった。人目に触れて悪評が立たぬように、信頼する乳母と共に下屋敷に住まわせていた。

三学には一刀両断、斬釘截鉄、半開半向、右転左転、長短一味の五種の太刀数がある。
いずれも手と足の働きに工夫をこらし、敵が打ち込んでくるのを待って後の先の太刀を振るい、勝ちを得るのである。
 三学とは、禅にいう戒、定、慧のことである。すなわち戒は兵法の禁戒を守り、定は心を静め散乱することなきこと、慧は敵と己をあきらかに観照することの意であるとされる。

 柳生新陰流では宗矩の甥である兵庫助に至って、完璧な合撃の技法が完成された。
 実戦でこの技を使われた相手は、防ぎようもなく斬られる。
なぜ、相手が受け手の合わせ技を防げないかといえば、隙ありと見てすでにこちらを狙い打ちこんできているため、もはやその動きを止められないからである。
 受け手は間一髪の差で確実な勝利を得るのである。後の先である。
その勝ちを得るためのわずかな時間差を生み出すのが合撃(がつしうち)の技で、この技を身につけておれば、敵を必ず倒すことができるというのが剣理あった。

 丸橋とは、丸木橋を渡るときのように、我が身の中心の位を保って敵の太刀先三寸へ小太刀をつけ、鍔を楯とし戦う法である。
どの技も理詰めの動きで有無をいわさず敵を破局へ追い込んでゆく理詰めの剣であった。

手ほどき程度で済んでいたらよかったが、娘は天稟を示した。
工夫を重ね、いずれは父をも凌駕するのではないかと思えたが、八重自身は自分がどれほどの腕前なのかという自覚はなかった。

八重は乳母にせかされて女らしく琴を弾くことがある。
ある日、隣家よりそれに合わせるかのように、冴えた鼓の音が聞こえてきた。
乳母が、隣家も譜代の旗本家である大久保の屋敷なのだと言い、嫡子は鼓の名手として知られているのだと教えたが、それ以上のことは知らないようであった。


綱吉は、最近でこそ武断政治から文治政治に転換したことで「徳川の平和」をもたらした将軍としての評価がなされるようになっているが、犬公方と巷間では呼ばれた。
生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉が敷いたものである。生き物を大切にせよというお触れであるが、自身が戌年生まれであることもあり、特に犬を大事にせよとした。
生類憐みの令は、天下の悪法とも言われるが、もとは動物だけでなく、子供や老人、捨て子、妊婦などの弱者を保護するものであった。
さらに、綱吉は生類憐みの令を通じて医療制度を充実させ、江戸市民の健康増進をはかろうとしていた。
それまでは老人を捨てたり、子供を捨てる行為が横行していた。 子供を捨てるだけでなく、間引きと称して生まれた赤児を殺したり、育児放棄により衰弱死する子供も多かった。
綱吉は儒教の影響を強く受けていたので、このような状況を憂い、市民救済の法令を出したのであった。
儒教の中心をなす考え方は、仁義禮智信忠孝悌諱。
三綱(さんこう)とは儒教で、父子、夫婦、君臣のことで、基本的な人間関係を表す。
これに対し五常(ごじょう)とは儒教で、仁義礼智信を指す。
三綱が父子間の孝、夫婦間の貞、君臣間の忠という具体的な人間関係に対するのと較べ、五常は抽象的な道徳である。
現代においては三綱を強調して儒教を否定したい人もいれば、五常に焦点を当てて儒教を顧みる人もいる。解釈に幅の広さがあるのが儒教の特質とも言える。
五常のうち信を除く仁義礼智をとりわけ四徳と言う。
四徳の意味は『孟子(告子章句上)』に記されている。
「敬い慎む心や、是非を判別する心は誰でも持っている。このあわれみの心は仁であり、恥ずかしいと思う心は義であり、敬い慎む心は礼であり、是非を判別する心は智である。仁義礼智の徳は、決して外から貼り付けられたものではなく、自分がもともと持っているものである。人はぼんやりしていてそれに気づいていないだけだ。」とする。
五常・仁義礼智信の意味といっても、孔子の言をまとめた『論語』を基礎にして、孟子、荀子、韓非子など古代より人によってその解釈は様々である。儒学を学ぼうとする者は、中国でも朝鮮でも日本でも、師匠の門下に入ってその解釈を学んだ。
音読みするとその意味が解りずらいが、訓読みすると解り易い。
仁はひとしであり、義はことわりであり、禮はうやまうである。
智は白日の下でも恥じない堂々たる知識、 信は、まことを述べる人の言葉。 
これに対し諱(き)は、日本では採用されなかった。訓読みでの“いみな”としての使われ方はあったが、論語の持つ上司の悪行には目を瞑るということは否定された。

生類憐みの令は何度も改定を重ねるうちに、しだいに内容がエスカレートしていったことで悪法という評価が定着した。
生類憐みの令が最初に発布されたのは、貞享2年(1685)であったが、その後24年間で100回以上も改定されている。
トップの考えが正しく施行されることはいつの時代でも無い。現代であれば様々な手段を講じて反対の風潮に持ち込むことに専念する組織もある。
その時代の政策に携わる者たちも自分に都合よく解釈し運用したから、不都合のみが指示者の責めとして後の世まで残り、ついには鶏を殺しただけで死罪になったり、子犬を捨てた者を市中引き回しの上獄門に処するなど、市民を苦しめる悪法へと変わって行ったという事象の方が伝えられる。
武断主義を文治主義に変えようとした結果は、それに不服を覚える者たちの考え方を変えることにまでは至らず、犬公方としての悪評のみを残した。

江戸幕府第5代将軍綱吉は、3代将軍家光の四男。
正保 (しょうほう)3年1月8日生まれ。幼名徳松。生母は本庄氏、後の桂昌院 (けいしょういん)。
1680年(延宝8)5月兄4代将軍家綱の死後、5代将軍に就いた。
綱吉は将軍になるやただちに、譜代の門閥として幕政の実権を握っていた大老酒井忠清を罷免し、綱吉の将軍就任を支持した老中堀田正俊を大老とした。
さらには寵臣を側近に集め、その地位を高めて老中同格の側用人制度を新設し、自己の腹心で幕政の中枢を固めた。
これを手始めに幕臣に対し賞罰厳明の方策を仮借なく励行し、将軍の権威を絶大にしていくことで、とくに幕政上伝統的勢力をもつ譜代層を畏伏せしめた。併せて直轄領統治の刷新に努め、財政専任の老中を設けて堀田正俊をこれに任じ、勘定吟味薬を創置して勤務不良の代官を大量に処分した。
このような綱吉の初期の施政は「天和 (てんな)の治」などと称せられ、「享保(きょうほう)の改革」の前駆的意義が認められる。
しかし綱吉の気まぐれで偏執狂的性癖も一因となって、堀田正俊が城中で刺殺されて後は、柳沢吉保ら寵臣の権勢のみが増大する傾向を生じた。
綱吉は幼少から儒学を愛好し、その精神を政治に反映させるべく先に述べた如く、自らも幕臣に講義し、全国に忠孝奨励の高札を立て、孝子表彰の制度を設けた。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く、当時の経済界の新しい展開への根本的対応策を欠き、幕府財政の悪化は進み、勘定奉行荻原重秀の建議で実施された貨幣悪鋳による経済界の混乱や物価騰貴を招き、一部役人と御用商人との腐敗した関係を生ぜしめた。
儒教の五常の徳(仁義礼智信)に日本では三つ加えられて八徳(仁義礼智信忠孝悌)になり、さらに二つ加わって十徳がある。
論語で有名な巧言令色鮮し仁でいう色は、ころころ変わる美辞麗句のことである。
武術家として修養する徳として、最期の二徳は「厳」と「勇」であるが、女子である八重にふさわしいものとは思えない。

柳沢吉保は上野国舘林藩士の長男として生まれ、1675年に18才で家督を継いだ時の禄高は530石。当時舘林藩主だった綱吉に、小姓として仕えるようになった。当時は保明という名前であった。
綱吉が将軍に就任すると、吉保は将軍の傍近く仕える小納戸役になり、1688年には将軍と老中の取り次ぎをする側用人に抜擢された。側用人は綱吉が最初に設置した役職で、老中と同じかそれ以上の待遇を受ける場合もあった。
側用人は文字どおり将軍のそば近くにいて、将軍の意向を老中に伝えたり、老中からの意見を将軍に伝える役目をする。老中にとっては側用人の機嫌をそこねると自分たちの悪口が将軍に吹き込まれることにもなりかねないため、ないがしろにはできない。身分としては老中より低いものの、結果的に側用人は大きな権力をもつことになる。ここに悪弊が生じなかったとは言い難い。 将軍にとっても口うるさい老中から距離を置いて、独裁的な政治を行うことができるため、わがままな性格の綱吉には好都合だったのである。

1694年、吉保は川越藩主となり、石高は7万2000石になった。待遇も老中格から老中上格(大老格)にまでなった上に、1701年には綱吉の名から一字を与えられ、このころから「吉保」と名乗るようになった。
まだまだ吉保は出世街道を駆け上り、これまで将軍一門しか治めることのなかった、甲斐(山梨)へ領知替えにより石高は15万石にもなった。他大名をどこかに押しやったのだともいえる。
文治政治を推し進め、儒学者(古学派)を登用したことでも知られる。
将軍綱吉が死去すると、6代将軍となった徳川家宣は新井白石を重用し、柳沢吉保は隠居に追い込まれたが、それまで生き延びた。

八重が生まれ育った時代背景はそのようなものであった。



徳川四代将軍・家綱の時代、幕府の統治方針は、武力によって統治する「武断政治」から、学問や法令の拡充によって世を治める「文治政治」へと変わっていっていた。 家綱の弟であった綱吉は、若くから学問に親しむ秀才であったけれど、綱吉が将来将軍になるとは誰も思ってもいなかった。
家綱が跡継ぎを残さず病床に倒れると、後継者問題が巻き起ったのであるが、 その時、綱吉を将軍に推したのが、水戸光圀であった。次期将軍には将軍家に最も近い血縁である綱吉がふさわしいと主張したのである。将軍・綱吉を生み出すきっかけを作ったのは、後に対立することもあった光圀だったのである。
しかしその光圀は、生類憐みの令には反対を唱えていた。

若かりし頃の血気盛んであった光圀は、幕府に「中国大陸に兵を出すべきだ、尊王攘夷が正しいんだ!」と強力に主張したが、もちろん、幕府はそんな意見を容れることはなかった。秀吉の朝鮮出兵に懲りて「もう外国を攻めたりなんてバカなことはしないで、内政を充実させよう」ということでできたのが徳川政権なのである。
水戸光圀というのは、常にこういう「威勢のいい観念論」を押し付けてくる存在で、柳沢ら幕府の役人たち、現実に国家運営をしていかなければならない幕閣にとっては、目障りで仕方がない存在であったのは紛れもない事実である。暗殺まで考えるほどのことはなかっただろうが、できれば消えて欲しい存在であった。
大陸出兵を却下された光圀は、せめて明の儒学者たちを保護したいと、水戸に連れて帰り「本場中国人の精神を吸収したい」と、彼らが食べていた中華料理を再現して食べたりした。これが「黄門サマが食べた元祖ラーメン」である。
彼ら中華からの亡命知識人たちをブレーンにして「大日本史」の編纂に取り掛かる。こうして「尊王攘夷」は水戸学の中核となり、幕末に大きく影響した。
水戸光圀が編纂した「大日本史」が、幕末水戸藩の尊王攘夷思想の背骨となったことから、代々の水戸藩主は、光圀の思想を継ぐことを誇りとしていた。

光圀は若いころ手がつけられない不良だったことは、よく知られている。水戸藩主になって一転人格者になったように言われるが、人の地金というものは終生変わらない。
常に「血気盛ん」な方向に話を持っていくことで、綱吉の文治路線とは対照的な思想を生涯持ち続けた。
彼はたぶん「武士のくせに刀を抜いたこともない小役人ども」、その小役人(官僚)の象徴として柳沢という人物を据えたことに不満を持っていた。


乳母である菊の娘である春が嫁いだこともあって、幼いころ一緒に遊んだ春が無事に子を授かることを願い、八重は爺を共にして参拝に出かけた。
春にとって男児を無事にもうけることは重大事であった。
水天宮は水及び子供に縁の深い神社であり、水には「流し出す」作用があるとして、このことから安産・病気治癒、水難除けのご利益があるとされていた。
併せて祀られている祭神(安徳天皇)が子供の守護神であることから安産・子授けのご利益があると信仰されていた。
 特に安産・子授けのご利益についてはよく知られている。

主祭神は天御中主神。天地の始まりに現れた宇宙の最高神である。神というよりはこの世界、もしくは宇宙そのものとされる場合もある。全ての神々に先駆けて現れた為、安産祈願、子授けなどの御神徳(ご利益)があるとされている。

 安徳天皇は高倉天皇の第1皇子で平清盛の娘 徳子を母に持つ人物。三歳で即位したが源氏の台頭により平家一門とともに都落ちし、最後は壇ノ浦に入水した。時に八歳のことであった。

犬の神像も据えられている。この子宝犬をなでると安産のご利益があるとされている。
 子授け犬は親子の犬の像で、犬の周りには干支の漢字が書かれた半円状の玉が埋め込まれている。自分の干支が書いてある玉をなでて、子宝・安産・子供の成長を願うとご利益があるとされ、戌の日などには順番待ちの列ができるほどの人気となっていた。
戌とは動物の「犬」を意味し、十二支のひとつである。この十二支は年、月、日、方角、時間とあらゆるものにあてはめられるが、古来より十二支を「日」にあてはめた「戌の日」に安産祈願をするとお産が楽になると言われていた。
 これは犬は一度に多くの子供を産むにもかかわらずお産が軽いことから安産の神様として信仰されてきたことに由来する。
 戌の日は前述してあるとおり十二支のひとつであるから12日毎に巡ってくる。つまり戌の日は1ヶ月に2~3回、一年に30回ほどあるということになる。

八重が参拝を終えて境内外に出ると、そこでは幼い兄妹が野犬に襲われていた。
兄は妹を庇って棒切れで必死に犬を追い払おうとしていたが、犬の勢いは凄まじく、今にも妹は噛み伏せられそうであった。
ご定法を慮ってか、周りの者たちは誰一人これを救おうとする動きを見せられなかった。
見かねた八重が兄の持つ棒切れを受け取り犬を打ち据えて追い払ったのであるが、倒れている妹を抱き起している背後から喚き叫んで斬りかかった侍がいた。
咄嗟のことに爺が身を投げ出して庇ったのであるが、したたかに背中を切り裂かれた。
余りの理不尽さに、八重は棒切れを持ち直しその侍に立ち向かおうとしたとき、間に割って入った着流しの武士がいた。
斬りつけた侍は苦も無くその場になげつけられたのであるが「おのれ手向かい致すか!」と形相もすさまじく立ち上がった。
着流しの武士は抜き身を下げた侍を見やり、「その羽織の紋所を見ると柳沢家中の者か?」と問いかけた。
その侍は一呼吸ついて着流しの武士を見つめたが、その着物に鮮やかに浮かぶ葵の紋所を見ると、一気に気勢が削がれた。
水戸のご落胤と知られた松平主水であると悟ったのである。
如何に柳沢の権勢が盛んであるとはいえ、水戸家と事を構えるのは躊躇われた
「おのれ、覚えておれよ!」と捨て台詞を残して退散した。
見ていた者たちは大喝采であった。
主水は背中を切り裂かれた爺を介抱する八重の傍らに近づくと、自分の供回りを呼び寄せ搬送を指示した。命にまでは別状なさそうであったが、重体は重体であった。
助勢してくれたことに感謝しながら自らの身分を名乗り、主水のことも尋ねたのであった。
「いやなに、八重殿の身ごなしを見たらいらぬお節介だったかも知れぬが、これ以上の騒ぎにしない方が良いと思っただけのこと。礼には及ばない。」と、あっさりしたものであった。主水としても、柳沢のやることには眉を顰めていたということになる。

数日が過ぎ、何となく胸騒ぎがしてならないこともあって、八重は水天宮を再訪した。
そこで、数日前の騒ぎを目撃していた者から、あのとき棒切れを振り回して犬を追い払おうとした兄が、ご定法を盾にしたあの時の武士に惨殺されたと聞くに及んだ。
後に残った妹は天涯孤独となって長屋の家主のもとにあるという。
八重は菊に命じてその妹を引き取り、侍女として育てることにしたのである。
経緯を見ていた者たちは「姫様、くれぐれもご用心下さい。あの時の武士たちが面子を晴らすために、あの娘を打ち取らずにはおかぬと叫んでおりましたゆえ。」と告げたのであった。
そうは言っても、武家の屋敷に討入りなどはそうそう簡単にできることではないから、打ち捨てておくよりない。こちらからことを構えるというには当たらない。

しかし、柳沢の家中の者は執拗であった。八重の住まいを探り当て、監視を続けたのである。自分たちの力量では敵わぬから、剣技に優れた上役である目付木村又之助     に助成を頼んだのである。幕閣での権勢を保持するための陰の役割を果たしている中心人物でもあった。このような者が立ち働かねば、長くは支えられない政権でもあった。
松平主水は水天宮での一見以来、八重のことを一篇ならず気に入っていた。女であるには惜しい身のこなしにも、肩入れせずにはいられないと思っている。
主水も水天宮のまわりの住人から、八重が狙われているということを耳にしていた。
八重は引き取った娘に里という名をつけ、常に身元近くにおいてなにかにつけ鍛えていた。時折は市井に育った身に武家屋敷勤めは気詰まりであろうと、下屋敷近くの桜並木の道に連れ出して息抜きをさせる心配りもしていた。
菊はそんな八重に、「人通りの少ない場所に出向くのはおやめ下され」と意見したが、八重は意にも介さなかった。幼き頃から自由に振舞える環境に慣れていた。
そんな動向は、付け狙う柳沢家中の者が掴むのにさして日時を要しなかった。
暖かな陽ざしに誘われて、八重は琴を供にして出かけた。せめて小太刀くらいは携えていればよかったが、自分を守るすべに不安をもっていなかった。
待ち構えていたように二人の武士がその行く手に立ちはだかった。最初から殺気満々である。ものも言わず抜き放った大刀を振りかざし斬りかかったのである。
身を躱して一人の太刀を奪い取ると、即座にその一人を叩き伏せた。息一つ乱していない。先般の事件で相手の力量は見切っていた。
「引きなされ」と叱咤した先に、かなりなりの良い男が立ち現れた。修羅場を数多く経験したらしい酷薄さが、変に落ち着いた動作に現れていた。腕は立ちそうであった。
「なるほど、女だてらにかなりな腕だ。しかし真剣相手にいつまで持つかな?助成はこないぞ。」
羽織を脱ぎ捨てると、事前に八重のことは聞いていたのか、襷をした身ごしらえは万全であった。打ち込まれた太刀を八重は奪った刀で辛うじて受け止めたが、鈍ら刀であったのか中ほどから折れてしまった。
傍らにいた琴は、八重から拝領した懐剣を抜き放ち、倒れている武士に「兄の仇」と叫んで斬りかかった。」
「やめなさい」と八重が目を少し放した隙を突いて木村又之助が振り下ろした剣は、浅傷ながら八重の肩先を切り裂いた。
不覚にも膝を突いてしまった八重に向かって勝ち誇ったように止めの太刀を振り下ろそうとしたが、八重は下から懐剣で木村の足の甲をしたたかに突き刺した。
木村はもんどりうってその場に倒れた。
「狼藉者」と大音声がして、松平主水がその場に登場した。
襲撃者たちは這う這うの体でその場から撤収するよりなかった。
「人が集まると面倒ゆえ、早々にこの場から離れなされ。後のことは拙者が処理しもうす。」と主水が懐から出して当ててくれた懐紙に、礼もそこそこに八重はその場から消えた。
家に帰ると手際よく傷の手当てをした。
乳母の菊は「だから申し上げていたのです。兄上様のお勤めに触りがでるようなことになったらとりかえしがつかないことになるのです。」と意見を繰り延べたが、八重は一向に意に介する様子を見せなかった。
小太刀を携えていさえすれば、滅多なことでおめおめ後れをとることはあるまいとの自信を深めていた。
傷が癒えると、一尺八寸ほどの小太刀の鍔を外して白鞘造にして背中に差し、上から羽織で覆って、以前に増して外にでるようになった。
多少は目立つから、供がつくときはそれを携えさせた。
屋敷内に居ては目にできない文物に触れることは興味を掻き立てずにはおかなかった。
兄の頼母は父以上に妹に対して甘く、かえって面白がった。


武断政治から文治政治への過渡期であり、まだまだ世の中は殺伐とした気風が残っていた。
水野十郎左衛門こと水野成之が組織し首領を務めた白束組が1664年に切腹により死去して10年を経ても、大小神祇組が勃興した。
志賀仁右衛門ら「大小神祇組」の活動時期は、1673年 - 1681年から1681年 - 1683年のころで、「公方の尻持」つまり将軍の後ろ盾があると自称し、同じ幕臣の旗本・御家人階級の若者がこれに加わり勢力を増大させ、これを志賀が束ねた。
幕府大目付・中山勘解由が大規模な取締りを行い、仁右衛門は捕縛され大小神祇組が壊滅するまで続いた。
昼日中から市中を徘徊し、目に留まった町娘を拉致して酒席の相手をさせようとしているのを見かけると、八重は容赦なくこれを打ち据えた。
女に苦も無くあしらわれたとなれば、いかに粋がっても表沙汰にできないから、八重の腕はますますあがっていった。
街中には未だにベイベイと六方詞を使う時流遅れの輩が多少は残っているが、罪を咎められて捕縛されれば、以前のように名誉ある切腹をもって処罰されるのではなく、惨めな死を与えられるだけであるから、その勢いは衰えざるを得なかった。
八重を見かけると避けるようになっていたから、そんな機会は殆どなかったが・・・
八重は琴を常に身近に置いて、何くれとなく鍛えた。昼日中に外出すると付け狙う者もいるので、陽が落ちてから出かけることが多い。
屋敷外での経験は、これまでの生き方と較べ例えようもなく心躍るものであった。
今宵も琴一人を供に連れ屋敷を抜け出した。菊にばれると何かと口喧しく意見されるから、早々に退がらせた後での隠密行動である。屋敷外での自由さは何事にも代えがたい。
屋敷街を抜けると、そこで山岡頭巾で面を隠した二人の武士と行違った。
月は無くて星明りだけであるから紋所は定かには見えないが、身拵えから見てかなり身分の高いことが見て取れた。軽く会釈をしてすれ違ったが、遠巻きに数人の屈強な警護が付いているらしいことからも、尋常ならざることが感じとれた。
夜陰に紛れて外出するのは自分だけではないと、そこはかとない親しみさえ覚えた。
自分の所業が、女だてらにと見咎められるなどと心配する気はついぞ覚えなかった。
綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ好景気の時代だったことから、優れた経済政策を執っていたという評価もある。
しかし、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易若しくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)であることを思えば、気楽に構えていて良いという時代ではなかった。
旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価されもしているが、戦国時代の武断政治から文治政治に移行する過渡期であったとも考えられる。
綱吉にとっての水戸光圀は何かと煙たい存在であったが、部屋住みである主水には何かと気楽に接することができ、無聊時には近くに呼んで下々の様子を聞くことも楽しみとしていた。

 徳川家には柳生流に加え小野派一刀流が剣術指南役として、2代将軍秀忠により採用されていた。
 一刀流の特徴は技の数が多いことであるが、一刀流の太刀筋の代表的な技は「切り落とし」「乗り突き」「浮木」「すりあげ」「張り」などであるとされる。 そしてこれらの太刀筋はほとんど現代剣道にもそのまま使えるのだという。
 太刀九本,小太刀八本,三重丸引 十一本,秘中之秘極意払捨刀十本以上無数,高 上極意五点五本,ハ キ リ合十二本,九 個之太刀 九本,他 流勝之太 刀十一本。その外に詰座抜 刀,立 合抜刀,清浄霊剣,軍 神御拝の太刀など 非常に数が多い。 しかし元師伊藤一 刀斎景久が工夫し,その統を継いだ小野次郎右衛門忠明が その順序を組んだといわれる大太刀五十本が根本とな っている。その中でも始めの五本に斯流の奥義がすべて含 まれており,さ らに煎じ詰めれば最初の一本目一つ勝(切 落 し)に 一刀流の真髄があるといわれている。
 柳生流と違い稽古は厳しく、防具は殆ど用いず真剣勝負さながらであり、これは将軍家に対しても同様であったらしい。
 柳沢家家老である山県は、武田家における百足衆の働きが、ことを為すに如何に重要であるかを熟知しており、こういう力を育て保持することに意を注ぎ、それを支配下に組み込んだ。
 八重は、如何に文治主義が進んでも、自らの身を守る実力なくして争いを避けることはできないと信じていたから、いざとなったとき相手が躊躇うくらいの実力を備えることが先だと思っていた。口先だけで何とかなるのだという世の中は、何時になってもできない。

八重は久しぶりに水天宮を参拝した。供を連れず一人であった。
人形町への道を辿るとどんな悪縁なのか木村又之助と出くわした。彼は一人ではなく、腰が据わった30代と思しき男と一緒であった。柳沢家家老の配下である風間源助という者であった。
木村が手酷い負けを蒙った相手であることを知っているようであったが、それをおくびにも出さなかった。剣の腕は相当なものであろうけれど、八重に対して何の動きも見せなかった。動けば双方無事には済まないだろうとの見極めがついたのだといえた。即ち一目置かれたということであり、加えて行為すら覚えさせた。
大名家には男子立ち入りが禁じられているエリアの警護を担う別式女と呼ばれるものが居る家もあるけれど、風間は何人かの別式女を見ているが、八重の力量は彼女たちそれらをはるかに超えると見て取った。
このところの八重は、里に教える剣技に益々意を注いでいた。里は八重の身の回りのことをするのが役目として与えられていたが、八重は自分でなんでもこなしてしまうので、里には剣の修行に費やすことができる時間はたっぷりあった。

古来、日本の女性はその美しさで多くの人々を魅了して来たのであるが、美しいだけではなかなか生きてはいけない者たちも沢山いた。生活の糧としての働きが必要であった。    ことに武家に生まれたり嫁いだりした女性であれば、美しさと共に自らと家族を守る強さも兼ね備えることが、いざとなったときの覚悟と嗜みを身につけておくことが求められた。要するに潔く死ぬことができるかどうかということである。
 戦国乱世も遠く去りつつあった江戸時代といえどそれは武家の嗜みであり、一部の諸藩大名家では別式(べつしき)を置いたと言われる。別式とはいったいどのような役割を果たしていたのか。
別式とは大名家の奥向き(幕府でいうならば)大奥と呼ばれる未成年子女などの居住区で、そこで居住する女性たちに武芸(剣術、薙刀、鎖鎌、馬術など)の基礎を指導する役目で、担当する女性は男装で臨むことが多かったという。
その姿は家によって異なっていたらしいが、ある家では眉を剃っても墨を描かず青いまま、大小の刀を手挟み、着物は対丈仕立てで勇ましいものであったという。
里は八重のところに引き取られた当初、大きくなったら兄の仇討ちをしてその恨みを晴らすことに凝り固まっていたが、仇討赦免状がとれる筈もなく、個人の狭い料簡でものごとを考えることが自分やまわりの人を幸せにはしないのだと感じるようになってきていた。
本多家の人たちの生きようは、先ず人としてどうなのかが基本にあるようであった。
より温かさを感じさせ、人とのつながりも豊かになるように覚えた、
八重は里が可愛らしく育つことを望んでいたし、乳母の菊もそれに協力的であった。

 自分がそんな実力を持ってもいないのに、他への評価は何についてでも大仰な解説を即座につける者がいる。一見尤もらしく、的を射ていて即妙に聞こえるが、どこかに胡散臭い思惑が垣間見え、心にまで響いて留まることは少ない。真理を突いてはいないのである。
 平易なやりとりの中での方が、後後まで深奥に残っていることが多い。
 それはそうであろう。ものごとはどんなに苦しいことであっても、自分の身内に取りこんでいつかは乗り越えなければならないのである。気付きがあったときに本人にもわかることで、そんなに簡単に解説できることではない。
 親は自分の経験を総動員して子のためになれかしと教えるが、子は親の言うことに沿って育つことは滅多にない。いつ気付けるのかすら判らないのである。言うことを素直に聞いておけばよかったと臍を噛むのは、もはや取り返しがつかなくなってからである。感謝の気持ちを表す方法はなく、それを次代につなぐべく抱えて生きる。随分酷い対応をしてきたものだとの悔いは拭えない。木止まらんと欲すれども風やまず。
  
 何事かを極めんとするとき、頭でよく考えて合理的に理解する事は必要なのであろうが、どうもそれだけではないようである。
肝に命じるとか腹を据えるという言葉が昔から伝わっているように、内臓にまで沈める必要がある。それらは反復練習が求められる。


第二部
   聞こえてくるもの

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